言葉を唯一の伝達手段とする者から見れば、ちかごろ映像は氾濫し、猖獗をきわめている。一昔まえではとても撮れなかったような絵が、映画館に、テレビに、ネットに流れている。
昔はそんな絵は想像で補ったのである。しかし今は、ふつうの人の想像をはるかに超える映像がそこかしこにあふれている世の中になってしまった。
観れば圧倒される。すごいもんである。もはや文字だけ、言葉だけでは太刀打ちできないのではないか。
映像は観る者を「持って行って」しまう。宇宙人との友好だとか、DNA操作によって恐竜が蘇ってしまいましたとか、とにかく映像は映像そのものだけではなく、言葉、音楽、人の感性に訴えるものを総動員して、少々無理のある、いやとてつもなく現実離れした話であっても、観る者を作品世界へと引きずり込んでしまう。観客は造り手の術中にまんまとはまり、あらぬ処へ投げ飛ばされているのである。
だが、そうした映像作品を観たあとに、ストーリーだけ抽出して構成をよくよく吟味してみれば「白々しいなあ」と思うことは少なくない。
話が荒唐無稽に過ぎて、ついて行けないのである。人生で経験を積んだ大人なら「こんな(都合のいい)ことが起きるわけがない」と白けてしまうのではないか。
警察官が町中で発砲するとか、神社のご神体に祈ればタイムスリップが起きてしまうとか。
まあ多くの大人は「(現実とは)ぜんぜん違うなあ」と違和感を覚えつつも、そこは大人の知恵か度量でもって、これは「架空の世界の話」であって、いまはこのストーリーを愉しむべきときなのだ(金も払ったことだし)と寛容にスルーしておられるのであろう。
映画(アニメーションを含む)が大ヒットするとそれを小説にした本が出回る。映画のヒットに便乗して売上を稼ごうというのであろうが、映画がよかったからといって小説もいいとは限らない。
「映画だけにしとけばよかったのに」という小説がごまんとあるのだ。実例は読者におまかせしよう。
文藝の徒は思う。映像はズルイなあ、と。こっちが使えるのは言葉だけだからなあ。
さて気を取り直して、書いた文章の推敲(何度目だろう?)でもしますか。