ふしぎな人たち(予備校講師の人間学)

 部屋には何人も人がいるのに、誰ひとり話をしようとしない。

 手をのばせば届くような距離にいながら、挨拶してもかえって来ない。目を合わせることすらしない。

 講師控室の、よくある風景である。

 彼らは笑わない。感情そのものがあるのか、ないのか、はたまた人生のどこかで置きわすれて来たのか。センサーも発話機能もこわれてしまったヒト型ロボットのようだ。

 それでも、たまに話のできる人がいる。親愛の情を示し、近づきになると、ある日とつぜん煙幕を張ったり、不機嫌な沈黙をぶつけて来たりする。人とのつき合いは淡泊でよく、濃密なつきあいというのが苦手らしい。淋しさを感じないのかもしれない。世の中、人としての感情をもたぬ人もいる(そんな人に「出会ったことがない」なんて人は、人生におけるまたとない僥倖を手にしているのである。素晴らしいことだと私などは思う)。

 きょくたんな例をのぞけば、淡泊な彼らもときに淋しくなり、ことばを交わしたい、話したいと思うことがあるようではある。だが、あたり障りのない範囲にとどめておけばそれでよく、人づきあいにはさいしょから防衛ラインを張っている。ここから先は立ち入るなとばかりに―――まるでハリネズミのようだ。彼らは人生において、親友とよべる人を持ったことがないにちがいない。

 中には如才なく話のできる人もいる。しかし人間、三年、五年と時間をかけて観察しなければ、その本性はわからぬものである。人から奪うことしか考えていない詐欺師でも、うわべだけとりつくろって善人を演じることは可能だからだ。

 はたして如才なかった彼(または彼女、以下「彼」と記すことにする)は、表面だけ調子よく合わせているだけで、けっして自分をさらけ出そうとしない。「何を考えているかよくわからない」タイプだ。何を考えているかよくわからないのは、本音を吐かないからである。あたり障りのない会話しかしない。深みにはいるのを避ける。人間関係においては淡泊、ときには冷酷で、相手が自分の期待にそぐわぬ人物だと認識するようになれば、バッサリ切り捨ててハイサヨナラ。彼にとっては人も道具と大して変わらんのであろう。誰かを深く信頼する、信じつづけるということがない。去年までいた人がいなくなっても、べつだん惜しむことも、懐かしむこともない。

 ハタと思いいたる。ああ、この人たちは、おのれが気分よく過ごすことが最優先事項であって、そのためには他者の気持ちなどどうでもいいのだなあ、と。肥大化した自己愛を後生大事に守りつづける人たち。しかし佛はすべての人を救おうとしておられること、自身が佛に仕える身であることを思えば、彼らのために祈る。

 いつか覚醒できる日が来るようにと。今生でそれがかなわなければ来世でも。

 生徒を前にすると、彼らは豹変する。控室にいたときの彼を見ている私などには、二重人格者ではないかと疑わしくなるほどである。テキストに収録されている問題にそくして、自分のもっている、ささやかなる知識を、雄弁に語りはじめるのだ。彼らは嬉々としてしゃべる、しゃべる・・・しゃべりまくる。教える生徒はまだ若く何も知らないので、反論される心配もなく、本性を見抜かれてしどろもどろになることもない。自分の優位は揺らがないわけである。だから、生徒の前では安んじて上機嫌でいられるのであろう。

 授業がすめば、彼らは控室にもどって来る。廊下でぶつかりそうになっても、ひとことも発しない。自分のまわりに人は存在しないのだから、会釈する必要もないわけである。

 扉の前に立てば、依然として一言も発せぬまま、テキストに目をおとすハリネズミたちが、影絵のように蠢いている。

 講師控室の、よくある風景である。

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