ころんで泣いて、父が怒って

 幼稚園のころは、大阪の門真市に住んでいた。一年だか二年だか憶えていないが、みじかい期間だった。というのは、小学校にあがるときには、福岡にいたからである。
 父は転勤族で、転園、転校はしょっちゅうだった。大阪に住んでいたころのことは、いまとなっては、ほとんど記憶からぬけ落ちているが、いくつか憶えていることもある。
 家は借り上げ社宅で、部屋にはスチール製のデスクが置かれていた。父が使っていたもので、のちにもらいうけ、小、中、高、浪とそのデスクで勉強することになるとは想像もしなかった。
 庶民の夢は3C、などと言われていたころである。車(カー)はなかったし、クーラー(エアコンのことを当時はそう言った)もなかったが、小さなブラウン管のカラーテレビだけはあった。そのテレビで、長嶋茂雄選手の引退試合も観た。もっとも、野球が好きだったからというのではなく、父が観ていたその試合を、横からながめていただけというのが真相である。当時は長嶋氏がどんなにすごい選手か、全然知らなかった。だが、うつし出された球場の異様な熱気から、ただならぬことが起きているということだけはわかった。

 四歳のときだった。
 あれが自分の原風景だったのかもしれない―――という光景が、記憶のなかにひろがっている。
 ある日の夕方、父と、私と、弟の三人は散歩するのに家を出た。当時、父はタバコを吸っていたから、タバコ屋にでも行こうとしていたのかもしれない。弟は二歳である。つかまり立ちから、よちよち歩けるようになり、歩くのがたのしくて仕方ないころである。
 うしろから、自転車に乗った若者が突っ込んで来た。
 二歳の男の子だから、まっすぐに歩いていなかったかもしれない。幼児は、予測不可能な動きをするものである。
 ひかれた。
 弟は、いっしゅん、大きく目をみひらいたのち、火のついたように泣き出した。小さなからだのうえを、大の男の乗った自転車が通過したのである。泣き出すまでのひと間が、うけた衝撃と、痛みの大きさを、ものがたっていた。
「おいっ、気をつけろ!」
 父は、突っ込んで来た若者を怒鳴りあげた。幼い子どもづれが歩いているのだから、そばを通るのであれば、スピードを落としてやるのが思いやりというものである。そんな配慮もせず、わがもの顔で走りすぎようとする不逞のやからには、世のしきたりというものを教えてやらねばならない。
 そのときの父は、まだ小さかった私の目には、悪漢を撃退したヒーローのように、とてもたのもしく見えた。
 若者はひとこと「すいません」と言ったきり、とくに悪びれたふうもなく去った。
 いまどきの父親なら若者をひきとめ、警察と保険屋を呼んで、治療費の談判などしたかもしれない。私ならそうするだろう。が、昭和四十八年当時、禍福はおてんと様のめぐりあわせであった。この世で起きるトラブルの責任を、いちいち当事者にとらさずにはおかないといった風潮は、希薄だったのである。
 弟の泣き声だけが、やまなかった。ちいさな両手を地べたにつき、四つん這いになったまま、顔を真っ赤にしてぽろぽろ泪をこぼしている。
 ―――よし、よし、かわいそうにな。
 昭和十一年うまれで子供をあやすようなことはあまりしなかった父が、弟のよだれかけや服についた泥をはらい、抱きあげて言った。
 その一言は胸いっぱいにひろがり、ほとんど無限大の質量で、私を圧倒した。
 胸のうちを言いあらわせるような言葉など知らなかった。しかし、声をふりしぼって泣く姿が、ただもうひたすらに哀しく、せつなく、いとおしく思ったのである。
 あのときの父と弟の像は、いまでも、脳裡を去っていない。啓示だった。長じて、忘れかけたことはあっても、心のどこかで脈うっていて、絶えて消えることはなかった。
 誰かに、悲しいできごとに泣かされている人がいたら、こんなふうにたすけ起こしてやれと、父は教えてくれたのかもしれない。

 それから半世紀ちかくの時が流れ、私は当時の父よりもずっといい歳のオヤジになってしまった。
 歳をとれば、世の中のことをいくらか知るようになる。
 少年期から僧侶にあこがれ、得度受戒して、いまもお経や漢籍を読みつづけているが、なんの罪もないのにいきなり突き飛ばされるようなことが、誰かの身の上に起きていると知れば居ても立ってもいられず、何かしてやれることはないかと考える。
 非力にしてなんにもしてやれることはないとわかっても、ただれた心のうちをきいて、その人のために真剣に祈ってさしあげるくらいは・・・!

 思うだけでは、世の中は変わらない。
 私は、できることから行動することにした。
 重い心を引きずっているあなた。
 残酷な現実に、うちひしがれているあなた。
 人生の淵で大きな傷を負い、二度と立ち直れないかもしれないと思っているあなた。
 あなたのもとへ馳せ参じます。一介の僧侶として耳を傾けます。まとまらなくてもかまいません。しどろもどろでも、とり乱してもかまいません。
 あなた自身の話を、きかせてくれませんか。

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