二十歳の原点といいますが、そのころ私は、書店に入りびたっていまして、なにはなくとも本というか、まあ遅れて来た文学青年というやつですね。私の時代にはもうロシア文学なんて誰も読まなくなっていましたが、ほかにやることがなかったのか、律儀にも(?)文学やら歴史やらの全集をすみずみまで読んでました。さがそうという気になれば、読むべき本はたくさんあり、なによりスマートフォンも、動画がやりとりできる通信網もなかった。いい時代でした。
理系の学生でした。出来はわるかったですけど、数式と格闘などしていました。数学上の定理は、ひとたび証明されてしまえば、永遠に正しい。ピタゴラスの定理なんて、二千五百年も前のギリシアで発見されて、いまの日本でも正しいんですよ。国境だの、人種だの、時代だのという壁をぶちぬいて、太陽系の外へ行っても正しいでしょう。この世で普遍的なものはと問われたら、まず「数学の定理」とこたえます。
しかし数学には、人間の感情などはいっさい入っていないんですね。数学で人のこころは語れない。人間感情などとは無縁だからこそ、普遍的だともいえますが・・・私にはそれが不満だった。だから(?)その反動で、授業に出ていないときには文学に没頭してました。
素人考えで笑われるかもしれませんが、そのころよく「人間のありようは、宇宙のひろがり方に似ているなあ、人は星に似ているなあ」なんて感心してたものです。
生まれたばかりの時点ではみなおなじ場所にいるけれども、それぞれの星が方向性をもっているから、時間がたつにつれてとんでもない距離ができてしまい、端っこどうしは観測不能、なんてことになる。
私は端っこが気になるタチなんですね。人間精神の宇宙における「極地」です。だれも寄りつかない、荒涼たる場所にも、人の足あとがのこっていたりする。どんなことを思い、どんな暮らしをしていたのだろう? そんなことが気になる。その人のことをわかりたいと思ってしまうのです。
本を読み、人を読む。そして、人とこの世界について、考えをめぐらせる。日々の糧に感謝し、そのとき観たもの、感じたものを書きとどめながら、この宇宙をわたってゆきたい。またそのときどきで出会った人に、ちょっとでもいいから楽しんでもらいたい。喜んでもらいたい。それが全うできれば、ほかに望むものはありませんね。