はじめて読んだのは小学生のときである。「坊っちゃん」は一日か二日で読めたが、「吾輩は猫である」は衒学的な会話がよくわからず、苦戦した。まあ猫の飼い主である苦沙弥先生と来客たちは当時のインテリであって、むかしも今も、インテリの話なんぞ小学生にわかるわけがない。当時の私はといえば、分厚い本を読み上げた達成感欲しさのあまり、猫が水瓶に水没してゆくラストシーンまでなんとかページをめくった。文章はユーモラスな箇所もあって、そこだけは笑えたけれども、全体としてはよくわかった気がしなかった。
もちろんそのころは、漱石がどんな人なのか知らなかった。読んでみてなんとなく面白いおじさんなのかも、と思ったくらいである。
これは思えばすごいことだ。漱石は1867年生まれ、私とは100年以上のへだたりがある。人が死ねば忘れ去られるのが世のつねではないか。100年後の少年に面白がられるとは、どこまできわだった個性なのだろう。
大学生のとき、漱石全集が新しく発刊される(第五版)というので、生協の書店に予約注文した。当時、私の通っていたガッコは文系、理系、医学部とキャンパスが分かれており、工学部生であった私は、毎月一冊のペースで刊行される全集本を買うためにのこのこ文系キャンパスまで出向いて行った。レジのおばちゃんは私の学生証を一瞥して変な顔をした。
漱石全集と一緒に、東洋史学者・宮崎市定の全集や、社会学者・清水幾太郎の著作集なども引き取っていたから、ますます変な顔をした。
当時、本を買うのは呼吸するのと同じくらいにあたりまえのことで、カネとは本を買うためにこそ存在するのであった。「夢十夜」「三四郎」「それから」「門」そして漢詩文や俳句。「別るゝや夢ひとすじの天の川」なんて句は脳裡に焼きついていまも離れない。漱石が書いた英文や書簡なども読んだ。私はしばらく、漱石の世界に耽溺した。
人間を、世界を知りたい。私はそのころ、何かに駆りたてられる思いを持てあましながら生きていた。心にはぽっかり穴があいていた。それでいていつも憤りととなり合わせだった。歯ぎしりするほど悔しかった。鬱屈していたのであるが、身体の内側で勝手にわいて来る情熱は、書物の海にむかって噴出した。さいわい、この海には無数の精神がとうとうと脈動しており、私は飽きることなく旅をつづけていられた。
生協書店のレジのおばちゃんにはかえって心配されていたかも知れない。「この子工学部じゃ落ちこぼれているんじゃないかしら」とか何とか。
そうそう私は漱石の話をしていたのだった。だがいつもの癖でまた変なところに話が飛んでゆくかもしれない。
私の姓は堀田というのであるが、どうもこの「堀田」一族には有名人がいない。私は幼いころから歴史好きで、どうしておれは「織田」「徳川」とか、「西郷」「坂本」みたいな家に生まれなかったのだろう? と残念に思っていた。
江戸時代、千葉佐倉に堀田正睦という幕府の重鎮が出たけれども、拙宅の先祖は私が知るかぎり代々福岡であるからして、おそらくこの老中とは無縁であろうと思われる。
後年、思わぬきっかけで数学を教えるようになり、数学書なんぞを引っかき回すと同時に漱石の「坊っちゃん」を再読した。
この小説には山嵐(ヤマアラシ)というあだ名の数学教師が登場する。本名は堀田、生徒にはいちばん人望があり、善悪をきちんとわきまえ、主人公の坊っちゃんと組んで悪徳教師どもを懲らしめる快男児!
この快男児の名が「堀田」になった経緯は知らない。しかし、あの漱石が「堀田」を登場人物の名として採用し、善玉として描いてくれていたのは事実である。
それをありがたく思うと同時に、わが苗字と先祖をほのぼのと誇らしく思った。
その余韻に生きている。いや間違えました「生かされている」のでした。漱石先生ありがとうございます。