ピーター・E・ドラッカーの名をご存じだろうか。
経営、マネジメントの創始者と言われる人で、名だたる企業家の多くがドラッカーの影響を受けている。遅まきながら読んでみると古典、名著といわれるわけがわかった。と同時に、ある人物のことが脳裡によみがえった。以下につづる文章はドラッカー氏の本とはぜんぜん関係ないことである。
はじめて就職した建設会社に、Kという営業部門の常務取締役がいた。
この人も当時まだ四十代だったと思う。その若さで会社重役なのである。しかも中途入社である。世の中そんなこともあるのか、と驚いた。
K氏は日本屈指の難関大学を出ていたが、それを鼻にかけない、明るい社交家だった。
この「社交家」というところが世渡りの極意の一つである。曲がりなりにも工学部の出身だからか、若き日の私が意識していたのはモノを作るのに必要なノウハウや、守らねばならぬルール、装置(社会におけるそれを含む)に仕組まれたからくりなどであった。
いいモノを作って売る。それこそ一国の経済の核となるべき実業で、マネーゲームにうつつを抜かすのは虚業である。高度経済成長を支えたエンジニアの多くはそう考えていた。どんな仕事にもノウハウはある。どうすればその仕事がうまくやれるのか、それを身につけるのが堅実な世過ぎというものだ。
しかしK氏の考えはそうではなかったのだと、今ならわかる。
自分の仕事は企画することであって、レールを敷くだけでいい。実際の仕事はその方面に長けた人材を起用すればいい。
K氏から直接、渡世術を聞いたわけではない。当時、私は二十代駆け出しのヒラで、四十代の重役と対等に話せるような立場ではなかった。しかし人の考え方は表に出るものである。こっちがしかるべき経験を積み、見識も高まったときに、当時の彼の言動からどんなことを考えていたかを推しはかればよいのだ。
K氏もおそらくドラッカーを読んでいたであろう。そして大きく影響を受けていたであろう。彼は手に職をつけ、真面目に働くことで生計を立てて行こうという勤勉な職人気質の日本人ではなかった。彼はビジネスにおいて他人が考えないことを考え、それを実行するための人脈づくりに励んでいた。アイディアを実行するにはノウハウよりノウフー(誰を知っているか)であることをよく理解していた。
しかるべき地位に就いて、アイディアを具現化する権限を持たねばならない。課長程度ではやれることにも限度がある。彼は営業の常務取締役に就任し、ついでに高い給料を取ることにも成功した。
K氏を連れて来たのは創業者である会長だったそうである。
どこで接点を持ったのかは知らない。当時は「これからは日本もどんどん世界に出て行かないといけない、国際化こそ世界の趨勢である」という雰囲気が濃厚であったし、K氏もしばしばそんなことを言っていた。地域に根ざし建設業一筋で生きてきた会長に、彼の話は新鮮に聞こえたであろう。やがて企業間国際交流の一環として、アイルランド(だったと思うが記憶違いかもしれない)から若い人を連れて来て入社させた。
しかし日本語もよくわからない外国人が、日本の建設業の示方書にしたがって設計したり、役所へ営業・説明に行ったりするのは無理がある。やがてバブルは崩壊して会社は国際交流どころではなくなり、彼らは退社の運びとなった。
あれっと思っていたらK氏は常務から部長へ格下げになっていた。私もほどなく退社したから、彼がその後どうなったかは知らない。
降格された頃は、彼としても居心地のわるさを感じていたであろう。しかし連れてきた会長にも責任はある。
地元の公共工事に入札して仕事を請け負う建設業と、国際競争に参入しシェア拡大あわよくば寡占独占をめざすグローバル企業とはわけが違う。建設はいいモノをつくって世界中のユーザーに買ってもらえばいいというものではない。
自動車やエレクトロニクスの顧客は一般大衆であるが、土木事業のそれは国や都道府県や市町村であるから、大衆に気をつかう必要はなく(だから無愛想なのかも)、役人や役所にこそ笑顔を見せなければならない。ほかにも違いはたくさんある。建設業にはメーカーにくらべてイノベーションが少なく、やっていることは江戸時代から大きく変わっていない。建設業を揶揄しているのではない。伝統的であることは価値でもある。このことはまた別に論じることもあるだろう。
建設業のなかにも東南アジアや中国に出て行って、為政者や役人にとり入って仕事を請け負っている会社はあった。会長はK氏にそんな役割を期待していたのかもしれない。しかし彼にやれたのは企業内留学のようなことであった。
社外から「エグゼクティブ」を迎え入れ、仕事をまかせる。そこにはこんな一幕もあったのである。