エグゼクティブ? その2

 エグゼクティブといえば、輝かしい経歴と高い専門性をもち、権限と高給をあたえられ、内外の要人に会い社運にかかわる意志決定に携わる一握りのエリートというイメージを、世人は描いている。しかし真相は玉石混淆ではあるまいか。皆さんも経験がおありだろうが、ひろい上げてみると「玉」は少なく、たいていは「石ころ」である。「玉」などそんじょそこらに落ちているものではない。

 ひどいのになると入るまえから経歴詐称、ちょっとでも成果が上がろうものなら尊大な態度で説教をはじめる(あなたの会社では図に乗ってセクハラやパワハラをくりかえしているかもしれない!)。業績が低下すればおのれの無能を棚に上げ、他人のせいにして頬かむりをきめ込む。イヤな仕事はどんどん部下に押しつけて自分はどこかへ雲隠れ。

 一流なのは保身と責任転嫁と変わり身の早さだけだった!

 つくづく世渡りに必要なのは面の皮の厚さであると思う。いくら能力があってもほんとうに「われ日にわが身を三省」し「いやいや自分にはとてもそんな役職は」と辞退するような謙虚な人は、たいてい世の傍流に追いやられ埋もれてしまう。

 面の皮の厚さとは何か?

 自分のプランに絶対の自信を持ち、手八丁口八丁、ときには詭弁を弄し資本家を口説いてその気にさせる力。しかし彼が述べることは机上の空論かもしれないし、業界にミスマッチであるかもしれない。

 異論や反論があってもそれをものともせず突き進む力。勇気あるように見えて、そのじつただ鈍感なだけかもしれない。都合のわるいことは一切耳にはいらない特殊能力のなせるわざかもしれない。はたまた反対意見を押し切ったり、反対者を排除できたりする権限がわが手にあることに酔っぱらっているだけかもしれない。こうなるともう害毒を垂れ流す汚染源である。

 事が起きればちゃっかり責任を回避して自分だけは生き延びようとする力。おのれのみよければそれでよしとする利己主義の権化。弱いくせに脳みそだけがいびつに発達したやつほど、恥知らずで見苦しい言い訳をするものである。

 周囲から嫌われ、総スカンを食っていてもなお「悪いのは相手で、自分は正しい」と思いなせる力。ここまで自分を疑わないと病的である。いや病気なのである。そしてこの手の病人ほど始末に負えないものはない。人間が精神的に成長するのに不可欠な「内省」がすっぽり欠如しているものだから、当人がいつまでたっても成長しないだけでは済まず、関わった人々の心を壊すから。部下は何人も鬱病で苦しんでいるというのに、当人だけは平然として態度を改めない。「バカは死ななきゃ治らない」と古人は言った。

「力」などと書いていてうんざりして来た。「性癖」と修正したほうがいいかもしれない。

 とにかくそういうものを身につけていれば自分を高く売り込むこともでき、うまくゆけば破格の待遇で迎えられることもあるわけである。

 私は大般涅槃経が説く「一切悉有佛性(いっさいしつうぶっしょう)」を信じている。生きとし生けるものすべてが、佛となれる性を宿しているという意味だ。だがその一方で、あいた口がふさがらないというのを通り越して「これが人間だろうか」と戦慄すらおぼえる人物がこの世に実在することも知っている。そんな人物に接すれば動揺する。「こんな人でも佛は救おうとしておられるのだろうか」との疑念がむくむくと頭をもたげて来るのだ。たぶんまだ私の器が小さく、修行が至らないせいであろう。

 ドラッカー氏の「エグゼクティブ」という言葉に触れて脳裡をよぎったあれこれを書いたが、拙稿に掲げたような贋物ではなく、仕事もでき、人格もそなえた真のエグゼクティブになりたい人は、ぜひドラッカー氏の著作を読んで下さい。どれから読むべきかわからない人は「経営者の条件」「傍観者の時代」の2作からはいってはどうか。前者は組織ではたらく人間がどんなことを念頭において仕事に当たるべきかを説いた社会人必読の書であり、後者はドラッカーという、世にも稀なる賢者がどんな人生をたどって来たか知ることのできる自伝である。

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