干上がる淀

「お母さんは、元気ですか?」

 そう話しかけてみた。まえに七十代後半になるお母さんと二人で暮らしているときいていたからだった。「まあ、元気ですよ」と、こたえた。

 つき合いが長いわけではない。はじめて彼に遭ったのはつい昨年のことである。前途に希望がもてないまま、人生の重荷にじっと耐えているように感じられた。その「重荷」は、私も長いあいだ背負って来たたぐいのもので、同じ穴の狢であればこそ、理解するのに言葉はいらなかった。

「考えてもどうしようもないから、考えないようにしています。いや、考えなきゃいけないんだけど、でも考えてもな・・・」

 母親はいま七十代だが、八十過ぎたら病気などで動けなくなるなんて事態も出来するだろう。どこか施設にあずけようにも、自分にはその経済力がない。彼はまだ四十代だというのに、お墓のことまで口にした。

「先のことが考えられない。お先まっくらですよ。母親と、死んだあとお墓どうしようかなんて話してます。『委託合同散骨』というのがあるらしくて、それだと安くすむみたいで。この春からまた仕事がひとつ減りましてね・・・まあ、こんな道をえらんだ自分も悪いんですけど」

 悪いことは重なるものである。そいつらは束になってやって来る。

 業務委託、という形態ではたらいていると、むこうの都合で仕事を打ち切られることがある。「力による一方的な現状変更」というやつで、それは、ある日とつぜんやって来る。とくに落ち度らしい落ち度がなくてもだ。仕事がなくなることは、生存がおびやかされることとイコールなのであるが、経営側は、はたらいている者にも生活があること、仕事を失えばたちまち困窮することなどは考えない。まあ経営側にも言いぶんはあるだろうが。

「はたらけど はたらけど猶(なお) わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」この歌を詠んだとき、石川啄木はまだ若かった。若さはそれだけで救いになる。絶望にうめく夜を過ごしても、若者はなんとか光を見いだそうとするものだし、転職に成功したり、彼女や彼氏でもできたりすると、とたんに生きる気力がわいて来る。若者にはどうか、できるだけ楽しく、仕合せに生きてもらいたいと心から願う。

 しかし、技術も、見識もあるひとかどの男が、四十をすぎても五十をすぎても、つねに食っていけるだろうか、家賃を払えるだろうかとの心配をしなければならないというのが、われわれの時代の実情である。大学はポストもないのに学生を大学院までひきとどめ、企業は人件費を「コスト」と見て、はたらく人を「派遣」さらには「業務委託契約」にして使い捨てにした。この世代の人々が、後顧の憂いなく所帯を持てていたならば、いまごろ少子化がどうのと騒がなくてよかったのである。

 2018年秋、九大出身の法律研究者がなじみの研究室に火を放って自殺したというショッキングなニュースが流れた。46歳だった。努力しても努力しても報われず、生活費を得ていた専門学校からは雇い止めをくらい、肉体労働に手を染めたが生活を立て直すことはできなかった。「(生きてゆくのに)仕事なんて何でもいいじゃない」と言う人もいるだろうが、私はこんな物言いに出会うと逆上しそうになる。しょせんは『他人事』だからそんな気楽なことが言えるのである。NHKは「事件の涙」というタイトルで、ドキュメンタリー番組を放映した。それから5年もたつというのに、私はこの、一面識もない研究者のことが、頭から離れない。

 川の流れは一定ではなく、ときに氾濫し、あたり一面を水浸しにすることもある。しかし水量がへると、あふれた水は流れから切り離された淀となる。そこに閉じ込められてしまった魚に、活路はほぼない。だが、死ぬか生きるかという瀬戸際でこそ、ひらく花もあると信じる。

「長生きはしたくないですね」と言う彼に、励ましの言葉をさがした。だが、解決策など容易に見いだせない、重苦しい空気のなかでは、何を言ったって空しくなってしまう。私にできたのは、彼の言葉に虚心に耳を傾け、その心を汲むことだけだった。

 

 

ふしぎな人たち(予備校講師の人間学)

 部屋には何人も人がいるのに、誰ひとり話をしようとしない。

 手をのばせば届くような距離にいながら、挨拶してもかえって来ない。目を合わせることすらしない。

 講師控室の、よくある風景である。

 彼らは笑わない。感情そのものがあるのか、ないのか、はたまた人生のどこかで置きわすれて来たのか。センサーも発話機能もこわれてしまったヒト型ロボットのようだ。

 それでも、たまに話のできる人がいる。親愛の情を示し、近づきになると、ある日とつぜん煙幕を張ったり、不機嫌な沈黙をぶつけて来たりする。人とのつき合いは淡泊でよく、濃密なつきあいというのが苦手らしい。淋しさを感じないのかもしれない。世の中、人としての感情をもたぬ人もいる(そんな人に「出会ったことがない」なんて人は、人生におけるまたとない僥倖を手にしているのである。素晴らしいことだと私などは思う)。

 きょくたんな例をのぞけば、淡泊な彼らもときに淋しくなり、ことばを交わしたい、話したいと思うことがあるようではある。だが、あたり障りのない範囲にとどめておけばそれでよく、人づきあいにはさいしょから防衛ラインを張っている。ここから先は立ち入るなとばかりに―――まるでハリネズミのようだ。彼らは人生において、親友とよべる人を持ったことがないにちがいない。

 中には如才なく話のできる人もいる。しかし人間、三年、五年と時間をかけて観察しなければ、その本性はわからぬものである。人から奪うことしか考えていない詐欺師でも、うわべだけとりつくろって善人を演じることは可能だからだ。

 はたして如才なかった彼(または彼女、以下「彼」と記すことにする)は、表面だけ調子よく合わせているだけで、けっして自分をさらけ出そうとしない。「何を考えているかよくわからない」タイプだ。何を考えているかよくわからないのは、本音を吐かないからである。あたり障りのない会話しかしない。深みにはいるのを避ける。人間関係においては淡泊、ときには冷酷で、相手が自分の期待にそぐわぬ人物だと認識するようになれば、バッサリ切り捨ててハイサヨナラ。彼にとっては人も道具と大して変わらんのであろう。誰かを深く信頼する、信じつづけるということがない。去年までいた人がいなくなっても、べつだん惜しむことも、懐かしむこともない。

 ハタと思いいたる。ああ、この人たちは、おのれが気分よく過ごすことが最優先事項であって、そのためには他者の気持ちなどどうでもいいのだなあ、と。肥大化した自己愛を後生大事に守りつづける人たち。しかし佛はすべての人を救おうとしておられること、自身が佛に仕える身であることを思えば、彼らのために祈る。

 いつか覚醒できる日が来るようにと。今生でそれがかなわなければ来世でも。

 生徒を前にすると、彼らは豹変する。控室にいたときの彼を見ている私などには、二重人格者ではないかと疑わしくなるほどである。テキストに収録されている問題にそくして、自分のもっている、ささやかなる知識を、雄弁に語りはじめるのだ。彼らは嬉々としてしゃべる、しゃべる・・・しゃべりまくる。教える生徒はまだ若く何も知らないので、反論される心配もなく、本性を見抜かれてしどろもどろになることもない。自分の優位は揺らがないわけである。だから、生徒の前では安んじて上機嫌でいられるのであろう。

 授業がすめば、彼らは控室にもどって来る。廊下でぶつかりそうになっても、ひとことも発しない。自分のまわりに人は存在しないのだから、会釈する必要もないわけである。

 扉の前に立てば、依然として一言も発せぬまま、テキストに目をおとすハリネズミたちが、影絵のように蠢いている。

 講師控室の、よくある風景である。

スマホの威力

 いかにもITに弱いおっさんがつけそうなタイトルで恐縮ですが、一席ぶちましょう。

 便利な機械(デバイス)というものは、ほんらい人間に備わっている五感、すなわち眼、耳、鼻、舌、身のバランスを欠損せしめ、退化させるものなんじゃないでしょうか。人工的、仮想的なものに対応する感覚だけをいびつに発達させるとか。

 原始時代、ヒトはつねに危険ととなり合わせでありました。社会保障なし。保険なし。カネはあったかもしれませんが「みたこともない」人のほうが多かった。身を守るには身心を鍛え、家族や部族の結束をかたくすることだと、みな思ってました。

 まわりにはいろんな外敵がいました。野生の肉食獣もいれば、となりの部族が攻めて来るかもしれない。一瞬の判断ミスで、生命を落とすことさえあったわけです。

 やむを得ず夜道を歩くときは、星を読んで方角を知りました。風を聞いて「ひと雨来るぞ」と予知できた人もいます。むかしの人は全身をセンサーにして、そして第六感をも総動員して状況を察知し、対処していたのです。現代には、五感を超えた第六感を頭から否定するような人がいますが、ずいぶんと鈍くなったもんですなあと言わざるを得ません。便利で快適な現代文明にどっぷりとつかり、ほんらいもっていたはずの能力の多くを眠らせているのだから、無理もありませんが。

 おしなべて古人は、現代人を凌駕する感覚をもっていました。彼らなら、「第六感」という言葉がさし示すものを、稲妻のように理解したでしょう。

 原始人をエライと思う私などは、長らくスマートフォンなどいらないと思ってました。緑色の公衆電話がどこにでもあるんだから、それ以上のものはいらなかったわけです。便利さは人を怠惰にし、鈍感にするんではないか。ほんらい人間にそなわっている「よきもの」を衰退させてしまうんではないか。そればかりではなく悪魔的なもろもろを連れて来るんではないか。私は長らくスマートフォンに対して、懐疑的であったわけです。

 しかし生きる時代はえらべません。公衆電話のなくなったいまの時代で仕事の契約をしようとするときなど、スマートフォンを「持ってません」などと言おうものなら、人事担当の驚愕の表情に直面せねばならず、結果、門前ばらいというおまけがもれなくついて来ます。時代の流れとはいえ、Google、AppleなどのIT巨人と、それに追随する国内大手キャリアの戦略、それにまんまとはまってしまう自分。「しようがねえ、つき合ってやるぜ」などと悪態をつきながら、auショップへ行ったわけです。

 ところで私は、生きているあいだはものを考え、動きつづけよう、書きつづけようなどと思っております。

 よい思いつき、考え、章句は、ひらめいたら「その場で」「すぐに」書き留めておかなければいけない。でないと忘れてしまうからです。あとで記録しておこうと考えて、かならず思い出せるなんて自信は、とうの昔に灰燼と化しています。これから記憶力はますます衰え、忘却の徒(恍惚の人にはなりたくない!)となってゆくんではないかとの懸念もあります。

 カメラマンがつねにカメラを持ち歩くように、私はペンとノートをいつも持ち歩いています。パソコンもほぼカバンの中に入ってます。電車に乗ってパソコンを広げられるようなら、迷わずそうしたい。

 しかし雨の日の車内などそういうわけには行きません。運よく座席にありつけたとしても、傘を手で支え、同時に膝に乗せたカバンの上でキーボードを叩くなんて芸当は不可能に近いんではないでしょうか。手があと2本くらいあればよいのに(ヒトはサルからではなく、昆虫から進化すべきであった!)…。

 本を読むか、昼寝して睡眠時間をおぎなうくらいが関の山か…とあきらめていたところへ、あるときスマートフォンにノートアプリを入れてみたわけです。

 世界は一変しました。

 いつでも、どこでもメモできる。電車を待つホームでも、電車内でも、立ったまま書ける。
 そして今どきスマホをいじっている人などめずらしくもなんともないから、怪しまれることもない。
 声が出せる状況なら、音声で入力することも可能とは、罪悪感さえ感じる便利さ。
 童門冬二氏は口述で原稿を書いていたらしいですが、これならおれにもできるかもしれないぞ、などとうれしくなってしまうのでありました。

 人は変化に対応しなければ生きてゆけません。進化論をかじった人でなくとも、現代を生きている方ならうなずいて下さるでしょう。「流行には遅れてしたがえ」とは、山本夏彦翁の名言です。

 数年に一度はとりかえねばならんようで、機械式カメラや万年筆などの一生モノとくらべれば、可愛げのない道具であることに変わりはないんですが…。

 人生であと何台のスマートフォンを迎えるのかわかりませんが、仲良くやって行きたいものだと思っています。

映像はズルイ

 言葉を唯一の伝達手段とする者から見れば、ちかごろ映像は氾濫し、猖獗をきわめている。一昔まえではとても撮れなかったような絵が、映画館に、テレビに、ネットに流れている。

 昔はそんな絵は想像で補ったのである。しかし今は、ふつうの人の想像をはるかに超える映像がそこかしこにあふれている世の中になってしまった。

 観れば圧倒される。すごいもんである。もはや文字だけ、言葉だけでは太刀打ちできないのではないか。

 映像は観る者を「持って行って」しまう。宇宙人との友好だとか、DNA操作によって恐竜が蘇ってしまいましたとか、とにかく映像は映像そのものだけではなく、言葉、音楽、人の感性に訴えるものを総動員して、少々無理のある、いやとてつもなく現実離れした話であっても、観る者を作品世界へと引きずり込んでしまう。観客は造り手の術中にまんまとはまり、あらぬ処へ投げ飛ばされているのである。

 だが、そうした映像作品を観たあとに、ストーリーだけ抽出して構成をよくよく吟味してみれば「白々しいなあ」と思うことは少なくない。

 話が荒唐無稽に過ぎて、ついて行けないのである。人生で経験を積んだ大人なら「こんな(都合のいい)ことが起きるわけがない」と白けてしまうのではないか。

 警察官が町中で発砲するとか、神社のご神体に祈ればタイムスリップが起きてしまうとか。

 まあ多くの大人は「(現実とは)ぜんぜん違うなあ」と違和感を覚えつつも、そこは大人の知恵か度量でもって、これは「架空の世界の話」であって、いまはこのストーリーを愉しむべきときなのだ(金も払ったことだし)と寛容にスルーしておられるのであろう。

 映画(アニメーションを含む)が大ヒットするとそれを小説にした本が出回る。映画のヒットに便乗して売上を稼ごうというのであろうが、映画がよかったからといって小説もいいとは限らない。

「映画だけにしとけばよかったのに」という小説がごまんとあるのだ。実例は読者におまかせしよう。

 文藝の徒は思う。映像はズルイなあ、と。こっちが使えるのは言葉だけだからなあ。

 さて気を取り直して、書いた文章の推敲(何度目だろう?)でもしますか。

ひとりはさびしい

「どうだった?」と訊く。

「たのしかった」会話はおわり。

「イヤだった」会話はおわり。

「つまんなかった」会話はおわり。

「悲しかった」会話はおわり。

「不安になった」会話はおわり。

「うん」会話はおわり。

無言。会話はおわり。

二人でいてもひとり。

エグゼクティブ? その2

 エグゼクティブといえば、輝かしい経歴と高い専門性をもち、権限と高給をあたえられ、内外の要人に会い社運にかかわる意志決定に携わる一握りのエリートというイメージを、世人は描いている。しかし真相は玉石混淆ではあるまいか。皆さんも経験がおありだろうが、ひろい上げてみると「玉」は少なく、たいていは「石ころ」である。「玉」などそんじょそこらに落ちているものではない。

 ひどいのになると入るまえから経歴詐称、ちょっとでも成果が上がろうものなら尊大な態度で説教をはじめる(あなたの会社では図に乗ってセクハラやパワハラをくりかえしているかもしれない!)。業績が低下すればおのれの無能を棚に上げ、他人のせいにして頬かむりをきめ込む。イヤな仕事はどんどん部下に押しつけて自分はどこかへ雲隠れ。

 一流なのは保身と責任転嫁と変わり身の早さだけだった!

 つくづく世渡りに必要なのは面の皮の厚さであると思う。いくら能力があってもほんとうに「われ日にわが身を三省」し「いやいや自分にはとてもそんな役職は」と辞退するような謙虚な人は、たいてい世の傍流に追いやられ埋もれてしまう。

 面の皮の厚さとは何か?

 自分のプランに絶対の自信を持ち、手八丁口八丁、ときには詭弁を弄し資本家を口説いてその気にさせる力。しかし彼が述べることは机上の空論かもしれないし、業界にミスマッチであるかもしれない。

 異論や反論があってもそれをものともせず突き進む力。勇気あるように見えて、そのじつただ鈍感なだけかもしれない。都合のわるいことは一切耳にはいらない特殊能力のなせるわざかもしれない。はたまた反対意見を押し切ったり、反対者を排除できたりする権限がわが手にあることに酔っぱらっているだけかもしれない。こうなるともう害毒を垂れ流す汚染源である。

 事が起きればちゃっかり責任を回避して自分だけは生き延びようとする力。おのれのみよければそれでよしとする利己主義の権化。弱いくせに脳みそだけがいびつに発達したやつほど、恥知らずで見苦しい言い訳をするものである。

 周囲から嫌われ、総スカンを食っていてもなお「悪いのは相手で、自分は正しい」と思いなせる力。ここまで自分を疑わないと病的である。いや病気なのである。そしてこの手の病人ほど始末に負えないものはない。人間が精神的に成長するのに不可欠な「内省」がすっぽり欠如しているものだから、当人がいつまでたっても成長しないだけでは済まず、関わった人々の心を壊すから。部下は何人も鬱病で苦しんでいるというのに、当人だけは平然として態度を改めない。「バカは死ななきゃ治らない」と古人は言った。

「力」などと書いていてうんざりして来た。「性癖」と修正したほうがいいかもしれない。

 とにかくそういうものを身につけていれば自分を高く売り込むこともでき、うまくゆけば破格の待遇で迎えられることもあるわけである。

 私は大般涅槃経が説く「一切悉有佛性(いっさいしつうぶっしょう)」を信じている。生きとし生けるものすべてが、佛となれる性を宿しているという意味だ。だがその一方で、あいた口がふさがらないというのを通り越して「これが人間だろうか」と戦慄すらおぼえる人物がこの世に実在することも知っている。そんな人物に接すれば動揺する。「こんな人でも佛は救おうとしておられるのだろうか」との疑念がむくむくと頭をもたげて来るのだ。たぶんまだ私の器が小さく、修行が至らないせいであろう。

 ドラッカー氏の「エグゼクティブ」という言葉に触れて脳裡をよぎったあれこれを書いたが、拙稿に掲げたような贋物ではなく、仕事もでき、人格もそなえた真のエグゼクティブになりたい人は、ぜひドラッカー氏の著作を読んで下さい。どれから読むべきかわからない人は「経営者の条件」「傍観者の時代」の2作からはいってはどうか。前者は組織ではたらく人間がどんなことを念頭において仕事に当たるべきかを説いた社会人必読の書であり、後者はドラッカーという、世にも稀なる賢者がどんな人生をたどって来たか知ることのできる自伝である。

エグゼクティブ? その1

 ピーター・E・ドラッカーの名をご存じだろうか。

 経営、マネジメントの創始者と言われる人で、名だたる企業家の多くがドラッカーの影響を受けている。遅まきながら読んでみると古典、名著といわれるわけがわかった。と同時に、ある人物のことが脳裡によみがえった。以下につづる文章はドラッカー氏の本とはぜんぜん関係ないことである。

 はじめて就職した建設会社に、Kという営業部門の常務取締役がいた。

 この人も当時まだ四十代だったと思う。その若さで会社重役なのである。しかも中途入社である。世の中そんなこともあるのか、と驚いた。

 K氏は日本屈指の難関大学を出ていたが、それを鼻にかけない、明るい社交家だった。

 この「社交家」というところが世渡りの極意の一つである。曲がりなりにも工学部の出身だからか、若き日の私が意識していたのはモノを作るのに必要なノウハウや、守らねばならぬルール、装置(社会におけるそれを含む)に仕組まれたからくりなどであった。

 いいモノを作って売る。それこそ一国の経済の核となるべき実業で、マネーゲームにうつつを抜かすのは虚業である。高度経済成長を支えたエンジニアの多くはそう考えていた。どんな仕事にもノウハウはある。どうすればその仕事がうまくやれるのか、それを身につけるのが堅実な世過ぎというものだ。

 しかしK氏の考えはそうではなかったのだと、今ならわかる。

 自分の仕事は企画することであって、レールを敷くだけでいい。実際の仕事はその方面に長けた人材を起用すればいい。

 K氏から直接、渡世術を聞いたわけではない。当時、私は二十代駆け出しのヒラで、四十代の重役と対等に話せるような立場ではなかった。しかし人の考え方は表に出るものである。こっちがしかるべき経験を積み、見識も高まったときに、当時の彼の言動からどんなことを考えていたかを推しはかればよいのだ。

 K氏もおそらくドラッカーを読んでいたであろう。そして大きく影響を受けていたであろう。彼は手に職をつけ、真面目に働くことで生計を立てて行こうという勤勉な職人気質の日本人ではなかった。彼はビジネスにおいて他人が考えないことを考え、それを実行するための人脈づくりに励んでいた。アイディアを実行するにはノウハウよりノウフー(誰を知っているか)であることをよく理解していた。

 しかるべき地位に就いて、アイディアを具現化する権限を持たねばならない。課長程度ではやれることにも限度がある。彼は営業の常務取締役に就任し、ついでに高い給料を取ることにも成功した。

 K氏を連れて来たのは創業者である会長だったそうである。

 どこで接点を持ったのかは知らない。当時は「これからは日本もどんどん世界に出て行かないといけない、国際化こそ世界の趨勢である」という雰囲気が濃厚であったし、K氏もしばしばそんなことを言っていた。地域に根ざし建設業一筋で生きてきた会長に、彼の話は新鮮に聞こえたであろう。やがて企業間国際交流の一環として、アイルランド(だったと思うが記憶違いかもしれない)から若い人を連れて来て入社させた。

 しかし日本語もよくわからない外国人が、日本の建設業の示方書にしたがって設計したり、役所へ営業・説明に行ったりするのは無理がある。やがてバブルは崩壊して会社は国際交流どころではなくなり、彼らは退社の運びとなった。

 あれっと思っていたらK氏は常務から部長へ格下げになっていた。私もほどなく退社したから、彼がその後どうなったかは知らない。

 降格された頃は、彼としても居心地のわるさを感じていたであろう。しかし連れてきた会長にも責任はある。

 地元の公共工事に入札して仕事を請け負う建設業と、国際競争に参入しシェア拡大あわよくば寡占独占をめざすグローバル企業とはわけが違う。建設はいいモノをつくって世界中のユーザーに買ってもらえばいいというものではない。

 自動車やエレクトロニクスの顧客は一般大衆であるが、土木事業のそれは国や都道府県や市町村であるから、大衆に気をつかう必要はなく(だから無愛想なのかも)、役人や役所にこそ笑顔を見せなければならない。ほかにも違いはたくさんある。建設業にはメーカーにくらべてイノベーションが少なく、やっていることは江戸時代から大きく変わっていない。建設業を揶揄しているのではない。伝統的であることは価値でもある。このことはまた別に論じることもあるだろう。

 建設業のなかにも東南アジアや中国に出て行って、為政者や役人にとり入って仕事を請け負っている会社はあった。会長はK氏にそんな役割を期待していたのかもしれない。しかし彼にやれたのは企業内留学のようなことであった。

 社外から「エグゼクティブ」を迎え入れ、仕事をまかせる。そこにはこんな一幕もあったのである。

漱石からのエール

 はじめて読んだのは小学生のときである。「坊っちゃん」は一日か二日で読めたが、「吾輩は猫である」は衒学的な会話がよくわからず、苦戦した。まあ猫の飼い主である苦沙弥先生と来客たちは当時のインテリであって、むかしも今も、インテリの話なんぞ小学生にわかるわけがない。当時の私はといえば、分厚い本を読み上げた達成感欲しさのあまり、猫が水瓶に水没してゆくラストシーンまでなんとかページをめくった。文章はユーモラスな箇所もあって、そこだけは笑えたけれども、全体としてはよくわかった気がしなかった。

 もちろんそのころは、漱石がどんな人なのか知らなかった。読んでみてなんとなく面白いおじさんなのかも、と思ったくらいである。

 これは思えばすごいことだ。漱石は1867年生まれ、私とは100年以上のへだたりがある。人が死ねば忘れ去られるのが世のつねではないか。100年後の少年に面白がられるとは、どこまできわだった個性なのだろう。

 大学生のとき、漱石全集が新しく発刊される(第五版)というので、生協の書店に予約注文した。当時、私の通っていたガッコは文系、理系、医学部とキャンパスが分かれており、工学部生であった私は、毎月一冊のペースで刊行される全集本を買うためにのこのこ文系キャンパスまで出向いて行った。レジのおばちゃんは私の学生証を一瞥して変な顔をした。

 漱石全集と一緒に、東洋史学者・宮崎市定の全集や、社会学者・清水幾太郎の著作集なども引き取っていたから、ますます変な顔をした。

 当時、本を買うのは呼吸するのと同じくらいにあたりまえのことで、カネとは本を買うためにこそ存在するのであった。「夢十夜」「三四郎」「それから」「門」そして漢詩文や俳句。「別るゝや夢ひとすじの天の川」なんて句は脳裡に焼きついていまも離れない。漱石が書いた英文や書簡なども読んだ。私はしばらく、漱石の世界に耽溺した。

 人間を、世界を知りたい。私はそのころ、何かに駆りたてられる思いを持てあましながら生きていた。心にはぽっかり穴があいていた。それでいていつも憤りととなり合わせだった。歯ぎしりするほど悔しかった。鬱屈していたのであるが、身体の内側で勝手にわいて来る情熱は、書物の海にむかって噴出した。さいわい、この海には無数の精神がとうとうと脈動しており、私は飽きることなく旅をつづけていられた。

 生協書店のレジのおばちゃんにはかえって心配されていたかも知れない。「この子工学部じゃ落ちこぼれているんじゃないかしら」とか何とか。

 そうそう私は漱石の話をしていたのだった。だがいつもの癖でまた変なところに話が飛んでゆくかもしれない。

 私の姓は堀田というのであるが、どうもこの「堀田」一族には有名人がいない。私は幼いころから歴史好きで、どうしておれは「織田」「徳川」とか、「西郷」「坂本」みたいな家に生まれなかったのだろう? と残念に思っていた。

 江戸時代、千葉佐倉に堀田正睦という幕府の重鎮が出たけれども、拙宅の先祖は私が知るかぎり代々福岡であるからして、おそらくこの老中とは無縁であろうと思われる。

 後年、思わぬきっかけで数学を教えるようになり、数学書なんぞを引っかき回すと同時に漱石の「坊っちゃん」を再読した。

 この小説には山嵐(ヤマアラシ)というあだ名の数学教師が登場する。本名は堀田、生徒にはいちばん人望があり、善悪をきちんとわきまえ、主人公の坊っちゃんと組んで悪徳教師どもを懲らしめる快男児!

 この快男児の名が「堀田」になった経緯は知らない。しかし、あの漱石が「堀田」を登場人物の名として採用し、善玉として描いてくれていたのは事実である。

 それをありがたく思うと同時に、わが苗字と先祖をほのぼのと誇らしく思った。

 その余韻に生きている。いや間違えました「生かされている」のでした。漱石先生ありがとうございます。

笑顔のうらに秘められた覚悟

 昭和がおわり平成にうつりかわるころ、岡山の中心街には、名物ともいえる「おっちゃん」がいた。
 おっちゃんの仕事は交通整理だった。
 全国津々浦々、アスファルトをけずっておこなう道路工事につきものの、よくある交通整理員と思うなかれ。おっちゃんの一挙手一投足こそ、通行人の耳目をそばだてるにふさわしいものだった。

 はじめて「おっちゃん」を見たのは、高校生のときである。
 バスやタクシーが入りみだれる交差点のどまん中に、制服を着た「おっちゃん」が、ピンと背筋をのばして立っていた。むかしレスリングでもやっていたのではと思うほど、上体の筋肉が発達しているのが看てとれた。信号が変わるたびに、ピィーッ、ピッ!と笛を吹いて進行方向を指し示すのであるが、白い手袋をはめた指先がビシッと伸びて、ほれぼれするほど姿勢がよかった。神経が行きとどくとはこういった動作のことを言うのだろうと思った。

 それだけでも注目に値するというのに、制帽の下は、それはもう満面の笑顔で、一度見たら忘れられないものだった。
 
 神々しい姿だった。

 帰り道、私は「おっちゃん」の姿を反芻しながら、考えた。
 腕や肘のまわし方など、尋常のものではない。どれくらい練習しているのだろうか。家の鏡のまえで?
 それにどうして、毎日あそこまでにこやかに笑顔でいられるのだろう?

 世の中、人の注目を集める人々がいる。俳優などはその最たるものである。
 いい商売だ。映画やテレビに出て、堅気の仕事の何倍ものギャラをもらって、しかも女性からちやほやされる。楽屋裏で、空港で、出迎える女性ファンの声の黄色いこと。世の中不公平ですなあと実感する瞬間である。

 おっちゃんは映画のスクリーンにも、テレビにも映らない。ちやほやもされない。当時の私のような、ヒマな高校生にめずらしがられるだけだ。給料だってほかの交通整理員とかわらないだろう。
 それなのに、あの笑顔。
 ―――覚悟があるんだろうなあ。
 私はそう思った。

 まわりの人に笑顔をとどけよう。人はそう思っても実行しない。かりに実行しても三日坊主で終わるだろう。家族から「熱でもあるのか」と言われたり、周囲の冷ややかな半眼にさらされたりしたら、はたまた自分自身が「こんなことをして何の得になるのか」などと疑い出したりしたら、たちまちサービス終了の日がやって来る。
 それがふつうの人であるが、おっちゃんはふつうの人ではなかった。
 ―――あのおっちゃんには、覚悟があったのだ。
 おっちゃんは、雨の日も風の日も、石ころのように無視される日も、笑顔で交通整理をつづけた。

 余人をもって代えがたい人がいる。私はおっちゃんからそのことを学んだ。

水戸黄門が好きなんです

引っ越しばかりしていたおかげで、私には幼なじみというものがない。引っ越せばもれなくついて来るのは転校である。転校したことのない人からは憐れまれるかもしれないが、べつに抵抗するでもなく「そういうものだ」と思っていた。

家に帰れば母がいた。そのころの記憶は同年代の方々と同じように薄れている。ペンを執ればなにかたぐり寄せられるかも知れない。

小学校の大部分は千葉で過ごした。家は父の会社が社宅として借り上げた年代物の平屋で、庭には山椒の木がありアゲハチョウの飼育などしたおぼえがある。子ども心にみすぼらしいなあ、将来は二階のある家に住みたいと生意気にも思っていた。

そのころ家のテレビに映し出されていたのは多く時代劇だった。母が好きだったのである。チャンバラの場面になると「やれ、やれえ」とかけ声がかかった。萬屋錦之介(よろずやきんのすけ)の宮本武蔵や忠臣蔵にも胸をおどらせたが、それらに勝るとも劣らぬ一大ヒーローが、東野英治郎扮する水戸黄門であった。

水戸黄門は畏れおおくも前(さき)の副将軍である。将軍の次に偉いのである。そのとてつもなく偉い老人が、隠居にしては目にもあざやかな山吹いろの袷(あわせ)に紫の上掛けを羽織って、ひょうひょうと旅に出る。名は? 越後のちりめん問屋・光右衛門(みつえもん)。

ご隠居に何かあっては一大事であるから、助さん格さん、うっかり八兵衛、由美かおる(扮する美女、風車の弥七の嫁?)などおなじみのメンバーがついて来る。格さんは横内正だったり、大和田伸也だったりしたが、助さんの里見浩太朗は不動であった(調べてみると初代の助さんは杉良太郎だったらしいが見たことがない。筆者の年代がバレバレですね、ハイ)。

旅先でご隠居は領民の困窮を目の当たりにする。年貢が納められない美貌の後家などは定番である。

その後家をめぐって、もう見るからに悪役、といった代官が登場する。美貌に目をつけ自分のものになるよう口説くのであるが、まともな婦人が見かけも中身も醜悪なおっさんなど相手にするわけがない。悪代官はそれでもめげず、強引に迫ったり、あまつさえ脅したりする。

一方で「〇〇屋、おぬしもワルよの〜」などと相好をくずしながら小判の束をふところにし、見返りに悪徳商人の利権を保証してやったり悪事を見のがしてやったりするのである。

ご隠居の指示に弥七が走る。弥七は忍者であるから屋敷にしのび込み、天井うらにはりついて動かぬ証拠を集める。

悪いやつらは懲らしめねば世の秩序も正義も保てない。オープニングから45分もたてば待ってました、助さん格さんの登場である。

悪代官は旅の老人に悪事を見透かされる。吹けば飛ぶよな軽輩と見下していたジジイの、朗々たる説教を聞かされれば、そりゃ口もぽかんと開こうというものである。両脇には仁王のような丈夫(ますらお)がふたり。

おのれ商人ふぜいが、者ども出会えッ!と手下をけしかける悪代官。しかし助さん格さんは水戸藩きっての使い手である。かんたんにふんじばれるはずの相手に、味方はバッタバッタと倒れ伏すばかり。

頃合いを見て「この紋所が目にはいらぬか」と突きつけられるのが三ツ葉葵の印籠であった。

ジャーン、ジャジャジャーン、ジャーン、カーッ!

ああ、なんと素晴らしき効果音。

「こちらにおわそう方をどなたと心得る? 畏れ多くも前(さき)の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ! ええい頭が高い、控えおろう!」

悪党どももこれにはひれ伏さざるを得ない。言いわけは見苦しい。異議申し立ても通用しない。証拠をにぎられてしまっている。

「かッ、かッ、かッ、かッ」

ご老公が豪快に笑えば、すべては丸くおさまるのであった。

あんな笑い方のできる俳優もいなくなってしまった。朗らかな、それでいて腹の底に気合いのこもった、古き良きさむらいの笑い方であった。

ワンパターンの勧善懲悪劇と言われればそうかもしれないが、私は「水戸黄門」が愛される世の中に住んでいたい。

水戸黄門は昭和の時代の善意であった。この時代劇が流れていたころ、日本は健康で強かった。いまのようにあまりにも複雑でわけのわからない、不安だらけの世の中ではなかった。